Webシティさっぽろ-朗読は、「北海道ゆかりの文学者で、没後50年たって著作権の切れた作品を中心に朗読してお送りします。 朗読者は、市民講座などで朗読の勉強をしたボランティアです。」ということで、今回は、「摩周湖紀行~北海道の旅より」 林芙美子 著を採りあげてみました。
尚、朗読者は、田中江美子さんです。
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いま読んでいます。アメリカ政治の言ってみればデタラメ性や、それに追随していく日本の保守政治のいい加減さが暴き出されています。政治を推進している人達が、如何にデタラメなことをしているかがわかります。つづく!
湾岸戦争の時に、日本が130億ドルも出したが、人を出さなかった(兵士を出さなかった)ので世界中のどこからも尊敬されなかったということがまことしやかにいわれているが、とんでもない話であって、フセインのイラクをモンスターに育てたアメリカや欧州の兵器輸出国の責任を問う責任追及の枠組みを作って追及すべきであった。つまり「兵器輸出国責任原則」といった基本的な理念を立ち上げていくことが大事だということが論じられている、ということが注目される論点だ。
9.11同時多発テロの起きた直後に「炭疽菌テロ」も起きていたが、その後どうなったか? あまりというかほとんど報じられていないが、クリントン政権時代、CIAとペンタゴンが並行的に新型の炭疽菌の開発や「模擬」生物兵器爆弾の製造が行われていたが、その全貌を知らされたクリントン政権はそれを一部中止した。しかし、ブッシュ政権は開発を加速させたということがニューヨーク・タイムス紙によって2001/09/04に報じられていた。9.11同時多発テロの前に報じられていたが、9.11テロによってかき消された形になっが、2001/10月から11月にかけて炭疽菌テロが起き、結果5人が犠牲になった。当初、チェイニー副大統領やブッシュ政権の閣僚たちは、この事件をアルカイダやイラクのフセインと結びつける発言を繰り返したが、やがて検出された遺伝子がメリーランド州の「米陸軍感染医学研究所」が保管してきたエームズ株と呼ばれる炭疽菌の遺伝子と一致することが明らかになった。その後は、貝のようにブッシュ政権は口を閉ざしてしまったというわけだ。これからもわかるように、いかに米政権というのはデタラメな発言を繰り返しているか、恐るべき研究をしているか、ということの一端がかいま見えてくる。
「テロとの戦い」を進めるというのなら、何故この炭疽菌テロについても全貌を明らかにしないのか、政治の表舞台から消し去ろうとするのか?!(☆炭疽菌事件で訴追予定の科学者が自殺)
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「慰安婦」問題というのは、いろいろ論文を読んだり本も何冊か読んだことがありますが、この問題を償うために1995年に設けられた「アジア女性基金」(正式名称は「女性のためのアジア平和国民基金」)については、『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(小熊英二/著)の本で、上野千鶴子が鶴見俊輔に論争を挑んでいた文章を読んだだけで、実際にも「アジア女性基金」について全くと言っていいほど知らなかったし、本で読んだこともありませんでした。その「アジア女性基金」に携わって著者の反省と総括、そして「メディア・NGO・政府の功罪」を書いた、非常に興味深い本でした。かなり突っ込んで書いてあり説得力の強い文章だ、との印象を持ちました。この本で批判されている人達や団体・メディアの反論も読んでみたくなりました(出版されているかどうかわかりませんが)。政治やイデオロギーと戦いながら、実際の運動体を担っていく上での困難さ等が詳しく書かれていて、今後十分な検討が各方面からなされねばならないでしょう。「アジア女性基金」の四つの柱は、
- 元「慰安婦」への国民的な償いのための基金の設置
- 彼女たちの医療福祉支援への政府からの資金拠出
- 政府による反省とお詫びの表明
- 本問題を歴史の教訓とするための歴史資料の整備
ここで検討されている論考は、多義にわたって私のような素人が論じるには荷は重すぎますが、随所にきらっと光る論考があります。たとえば「法的責任は道義的責任に優るのか」。NGO等が「法的責任」を求めるが、それが本当に被害者にとっていいのか、最適な選択なのか、と著者は論を進めます。すごい説得力のある論考だと感じました。
本の内容
一九九〇年代以降「慰安婦」問題は、「歴史認識」の最大の争点となっている。政府は軍の関与を認め謝罪。市民と政府により被害者への償いを行う「アジア女性基金」がつくられた。だが、国家関与を否定する右派、国家賠償を要求する左派、メディアによる問題の政治化で償いは難航した。本書は、この問題に深く関わった当事者による「失敗」と「達成」の記録であり、その過程から考える新たな歴史構築の試みである。
目 次
第1章 「慰安婦」問題の衝撃
第2章 アジア女性基金とメディア、NGOの反応
第3章 被害者の視点、被害者の利益
第4章 アジア女性基金と日本政府の問題性
第5章 償いとは何か―「失敗」を糧として
終章 二一世紀の日本社会のあり方
いま読んでいる本です。『清冽の炎』神水理一郞/著 花伝社 第3巻 「疾駆の秋」
1968年、東大闘争のあった年。まだ半分くらいしか読んでません。民主派とか解放派とか出てきますが、これは、左翼各派を表しているようです。たとえば、民主派というのは、民青。もちろん、反代々木派も出てきます。その当時の学生が何を考え、行動していたかがわかります。今とはかなり違う時代だったことが、たとえば、職業的革命家という言葉が出てくるところにも現れています。その当時を経験した人も、しなかった人も、その当時のものの考え方、青春時代の不安や希望などを考えるのにいい材料かもしれません。ただ、注意しなければならないのは、主人公も書き手も、民青の立場から書いているということです。民青の闘争への関わりであり、民青の青春でもあるわけです。その当時、反代々木であった人が読んだら、これまた違った闘争観で戦っていた、というかもしれません。ノンポリもしかり。
バブル崩壊後、とりわけ21世紀に入って、時代が、生活環境が、がらりと変わったと感じている人は多いと思います。1億総中流意識から格差の拡大によって、儲けている人は、ますます儲けることが出来やすくなり、底辺で生活している人は、そこからますます抜け出すことが出来ないとの実感を感じている人が多いのじゃないでしょうか。
「何なんだ?」との思いを募らせています。理論的に学問的にその原因を探りたいと思っている人は多いでしょう。この本は、経済学からそれを探っています。このような本が待ち遠しかったと、読んでみて思いました。と同時に、経済学を本格的に勉強しなければ、世の中のことが見えなくなりつつあるとの考えも沸いてきました。まだ、一回読んだだけなので、もう一度読んでみなければ、と思ってます。二度、三度、と読む価値があるように思われる本です。
本の内容
帝国化・金融化・二極化する世界、一国単位ではもう何も見えない。1995年を境に、大航海時代にも匹敵する「世界経済システムの変革」が始まった。第一級のエコノミストが明らかにする、グローバル経済の驚くべき姿。
目 次
第1章 覆される戦後経済の常識―分水嶺となった一九九五年(日本のデフレーター、史上最長のマイナスに―デフレだと景気は回復しないのか
ルービンの「強いドルは国益」は米国の「金融帝国」化宣言―経常赤字の増加は成長の制約になるのか ほか)
第2章 重層的に二極化する世界経済―再来する帝国の時代(テイクオフの条件が整うBRICs―日本は再近代化で危機を乗り切れるか
世界経済の二極化―先進国vs.BRICs ほか)
第3章 長期循環の「超」長期化と短期循環の「超」短期化―不安定さ増す世界経済(密接不可分の関係にあるグローバル化と米国の「帝国」化
長期循環を「超」長期化させるグローバリゼーション ほか)
第4章 「大きな物語」の終わりと「バブルの物語」の始まり―ストックがフローを振り回す時代(軍需・公共投資主導経済の終わり―インフレの時代の終焉
資産価格激変の時代の始まり―金融経済が実物経済を振り回す時代 ほか)
第5章 資本の反革命における二つの選択―成長か定常状態か(誰のための、なんのための景気回復か―成長は政策目標となりえるのか
格差拡大と中流階級の没落―グローバル化の本当の脅威は雇用ではなく賃金 ほか)
『小泉政権 「パトスの首相」は何を変えたのか』内山融(うちやま・ゆう)/著 中公新書
小泉政権に対する評価は、人それぞれで、学者と素人(私のような)の間でも評価は分かれます。また分かれて当然だと思います。ただし、当然政治学者の意見にも耳を傾けてみる価値はありそうです。この著者は、ある面で小泉政権を評価しているわけです。私と言えば、戦後史上最悪の「ワンフレーズ」説明の首相、近隣諸国の国民感情を考慮しないで靖国神社に参拝して(公約とは言え)ことさら韓国・中国を挑発した首相、アメリカに対しては追随することしか考えていない首相、若者たちや都市新中間層をまんまとだました首相(「受け」を狙う政治手法! 「善玉」vs「悪玉」、自分 vs 抵抗勢力)、というような印象を与え続けた人だと考えています。そして、彼個人の生活では変態趣味のある人物として記憶している。
政治学者の評価を読んで気づくのは、評価する場合の切り口が多様で、言ってみれば素人(政治学の訓練を受けていない素人)には考えつかない点も多く、学ぶべき点がある。
著者の小泉・自民党が無党派層の支持を得た要因としてあげている点は、
- 第一に、小泉首相が郵政民営化を単一の争点として巧妙に設定したことである。
- 第二に、小泉は典型的なポピュリスト的選挙戦術をとった「悪玉」対「善玉」の二元論的対立構図を印象づけた。
- 第三に、有権者が党首イメージと政権の業績評価に基づいて投票した。
と、分析している。
これを読んだのは、ちょうど1ヶ月前で「YOSAKOIソーラン祭り」の真っ盛りの時でした。それで、祭りの興奮のだだなかで記憶が飛んでいます!! 追々感想を追加していこうと思っています。
『ユナボマー爆弾魔の狂気 FBI史上最長十八年間、全米を恐怖に陥れた男』「タイム」誌編集記者/著 田村明子/訳 ベストセラーズ
昔から気になっていたが、ユナボマー関連の本をちゃんと読むのは初めてです。むかし本屋さんで立ち読みしたのがきっかけでずっと気になっていました。その時は、本の価格が高かったものですから、買うのをあきらめました。18年間も孤独な生活をしながら爆弾を送り続け、3人を死亡させ多くのけが人を出したユナボマー。彼はどんな人物だったのか? キーワードは、孤独、高学歴、爆弾魔、反文明。ユナボマーは、1996.4.3 逮捕されたが、その当時のインターネットには、「ユナボマーを英雄視するメッセージであふれかえる」たそうです。私は、英雄視はしないけれども、やはり興味があった。彼には、興味をそそるものがあるのだろう。それは何なんだろう? いまだによくわからない。
ポーランドから移民してきた2世の両親から生まれたテッド(ユナボマー)だったが、両親とも教養が高く、教育熱心で子ども達に自然とのふれあいをも大事にした教育をしていた。自然の生活でのサバイバル術も身に付けさせていた。テッドもその下の弟(デビッド)も、人も羨むような一流大学を出ていた。テッドは、ハーバード大学、弟のデビッドは、ニューヨークのコロンビア大学を出ている。ユナボマーは、大学院も出て数学の助教授までつとめた(カリフォルニア大学バークレー)。それが何故爆弾魔になっていったのか? この辺が本を読んでもよくわからないとこです。1968年頃の大学紛争やベトナム反戦闘争も影響しているだろうし、産業革命の急激な「発展」も影響し、エコロジー思想も影響しているようなことは書かれています。だが、爆弾魔になるには何か飛躍がある。
カリフォルニア大学バークレーの助教授職を辞めいろいろな職に就くのだがうまくいかない。小さい時から秀才だったユナボマーの唯一の弱点は、幼い時から人付き合いが苦手だった。しかも数学専攻という純粋な基礎学問を長年積み重ねてきたものにとって、世間になじむにはあまりにも無防備だったように、私は思う。実学、例えば経営学とか金融工学あたりを専攻していれば、もっと違う人生を歩むこともできたかもしれません。
ユナボマーは、モンタナの田舎に掘っ立て小屋を建て、孤独な隠遁生活を始めるのだ。しかもおもしろいことに、兄に影響された弟(デビッド)までが、テキサスの乾いた大地に穴を掘って住んでしまうのだ。しかし、弟の方は、ある時期から普通の生活にもどっている。それは、心の支えとなっていた女性の存在が大きかったようだ。後にこの女性と結婚もしている。そして、もっと驚くのは、ユナボマーが自分の兄ではないかと、思うようになっていき、最後はFBIとの接触をしていくのだ。
高い教養と自然生活でのサバイバル術。しかも、人付き合いが極端に苦手。時には、これらがとんでもない方向に自分を導いてしまう。ユナボマー事件は、それを示している。
本の内容
近年の犯罪史上で最大のお尋ね者と呼ばれたユナボマー。彼は十八年間ものあいだ政府機関から巧みに逃れ、対FBIと最長の捕りもの劇を操り広げた。一九九六年の四月三日、FBIの捜査官たちは、モンタナ州にあるベニヤ板の小屋を取り囲んだ。そして世間は初めて、ユナボマーと呼ばれた犯人の容疑者、テオドア・カジンスキーの素顔を見ることになった。本書は、『タイム』誌のジャーナリスト・チームが、彼の悲惨な過去、狩る者と狩られる者のゲーム、そしてFBIがどのようにして彼を逮捕することになったかの経過を綴り、犯罪史上でもっとも狡猾な連続殺人犯と信じられている男の全貌を明らかにしたものである。
目 次
1 世捨て人の隠れ家
2 天才少年の屈折
3 仮採用の数学助教授
4 山男はいつも自由である
5 見えてきたパターン
6 隠遁生活が精神構造に与える影響
7 口を開いた爆弾魔
8 血と名誉
9 回答と疑問
支配者層は、この数年の内に憲法を改正(改悪)しようとしているが、それに対して国民は判断が問われる。その為には憲法に対して何らかの見識が必要です。それに対してどうするのか、つまりそれに対する備えが必要だと思うのですが、どうするか? 私の考えでは、少しずつ憲法に関して勉強を続けるしかないでしょう、ということです。
憲法というのは、いま調べてみたが103の条文しかないが、国の基本法であり、この方面の基本的な考え方が身に付いていないと一般国民からすると難しいものです。
『平和憲法』杉原泰雄/著 岩波新書 を読んでいて驚いたのは、ポツダム宣言が発せられ(1945/07/26)「ただ黙殺あるのみ」によって20日間も無駄にしてしまったことです。国体の護持(天皇主権を維持する)にこだわったばかりに、つまり戦争の終結のための絶対的条件としていたため、広島、長崎に原爆が落とされ、日本兵のシベリヤへの抑留もされ、中国残留孤児もうんでしまった、ということです。逆に言えば、早く受諾していれば、これらの問題を大きく回避できたかもしれなかったのです。日本の支配層は、国民の安全より国体の護持が大切だったのです!!
更に許せないのは、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣が、1945/08/28に「一億総ざんげ論」を発表したことです。戦争指導部の責任を回避するために狡猾にもこれを発表したことは、責任の所在をうやむやにするものでした。実に狡猾で汚いやり方だと思います。
この本は20年前に出た古い新書ですが、平和憲法や新旧・日米安保条約、1978年の日米防衛協力のための指針(ガイドライン)について書かれていて、基本的文献だと思います。それから、1980年代の中曽根内閣「総決算政治」について詳しく書かれていて、そういう意味でも基本文献だと思います。つねに、「解釈改憲の政治」と「明文改憲を求める政治」の二頭立ての馬車として支配層の政治が長い道のりを着実に歩んできたことがわかります。また、驚くことにその当時アメリカの議会では「日本の防衛力増強監視立法」(1985/08/22発効)というとんでもないものがつくられ、日本に防衛力増強を迫っていたことです。今から考えれば、ソ連は1989年に自滅的崩壊を向かえるのであって、軍拡競争に敗れつつあったにもかかわらず、デタラメなソ連の脅威を煽り続けて軍備の増強に狂奔していたことがわかります。これを狂気といわずして何というのでしょうか? これからもわかるように、日米の支配者達はデタラメの限りを尽くしていたことが、しかも今もしていることが、わかります。
「日本の防衛力増強監視立法」というのは、日本が1990年までに1000カイリのシーレーン防衛の能力を達成するように大統領に監視することと議会へ年1回報告することとを義務づけるもの。