江別市に関連ある記事を集めてみました。江別に住んでいても意外と郷土の歴史を知らないものです。記事を読んでむかしの郷土に思いを馳せるのも楽しいものです。豊平川にもいろいろ歴史があって江別とも関係が深いことが分かります。「江別はかつて、道内有数の港町だった」「1882(明治15)年に幌内鉄道の江別駅が開業し、まちは小樽港と鉄路で結ばれる」というのも驚きです。

朝日新聞デジタル:江別(2)-マイタウン北海道

■河岸に立つ榎本武揚像

 いまから200年以上前。豊平川は大氾濫(はんらん)を起こし、石狩川と合流する川尻を東へと切り替えた。もともとあった対雁(ついしかり)川をすっぽりとのみ込んだそれは、現在の対雁(江別市)のあたりだ。以後流れのゆるいこの一帯は洪水常襲地となったため、昭和に入って大規模な新水路が、下流の中沼(札幌市)に掘られた。18世紀前半から対雁川河口には、松前藩の下ツイシカリ場所(漁業や交易の拠点)があった。この地にはいま、旧豊平川の痕跡をかろうじて残す、世田豊平川の小さな流れがあるばかりだ。

 世田豊平川の河口右岸は、榎本公園になっている。戊辰戦争の最終局面、箱館戦争で官軍と戦って敗軍の将となり、のちに明治政府の要職のかずかずを務めた、あの榎本武揚を顕彰する公園だ。

 公園で目を引くのは、高さ7メートルもの台座にのった、モニュメンタルな「榎本武揚像」。1970(昭和45)年に佐藤忠良が制作したものだ。その翌年、71年には札幌二中で佐藤の先輩にあたる本郷新が、札幌オリンピックの記念彫刻「雪華の像」を、真駒内公園に建てている。こちらの台座は12メートルだから、本郷は後輩への負けん気を起こしたのだろうか。

榎本武揚・顕彰碑・騎馬像・佐藤忠良作P1000900m.JPG
撮影日:2005/06/29

 榎本公園には、江戸時代から明治にかけてこのあたりがいち早く拓(ひら)かれていた史実を解説する石碑などがある。

 さて、対雁になぜ榎本武揚が登場するのだろう。それは榎本が、1873(明治6)年にこの地の不在地主となったからだ。もともとここにはその2年前、宮城県から21戸の入植があった。しかし開墾はしたものの、道都から離れて物流の便があまりに悪いため、彼らは札幌の雁来へと移っていた

 明治期の高級官吏たちが、内国植民地北海道でいかに私欲を満たしていたかは、さまざまに語られている。例えば『高橋是清自伝』で高橋は、1903(明治36)年に来道した際、小樽の中心地が歴代の開拓使長官や榎本らの所有地となっていることに「一驚」している。

 湧水(ゆうすい)が回流する沼という意味をもつ対雁は、榎本にちなむ多くの史実がめぐる地でもある。

(文・谷口雅春 写真・露口啓二)

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朝日新聞デジタル:江別(1)-マイタウン北海道

■港町の繁栄 今は昔

 江別はかつて、道内有数の港町だった。中心は、千歳川が石狩川に注ぐ一帯、いまは堤防で守られた千歳川左岸だ。1882(明治15)年に幌内鉄道の江別駅が開業し、まちは小樽港と鉄路で結ばれる。内陸への開拓を進めるために、陸運と水運が交わるこのまちは、物資の一大集積地となっていったのだ。奥地へと分け入る移民たちも、ここを足だまりにした。

 1878(明治11)年に江別兵村に入った屯田兵10戸も石狩川を上ってきたが、本格的な水運は、月形の樺戸集治監(81年開庁)へ囚徒や物資を運ぶ必要からはじまった。しかし明治初期のこの川は、まだ原始の大河。流木や埋もれ木だらけで流れも安定せず、船の転覆や座礁は日常のことだった。そこで浚渫(しゅんせつ)や流木の除去などに、集治監の囚徒たちが動員されている。そうして江別から月形まで、上りで9時間、下りで4時間の定期航路が開かれた。

 港町江別の最盛期は、89(明治22)年に石狩川汽船会社が創業してから、第1次世界大戦の特需が北海道にまでやってきた大正半ばまで。上川丸(60トン)などの大型外輪船は何艘(そう)もの曳(ひ)き船をしたがえ、石狩、江別、月形を行き来する。石狩からは生活産業物資が入り、上流からは札幌・小樽に、木材や農産物などが積み出された。千歳川の水運も、上流の幌向や長沼から江別に、農産物をぞくぞくと運び込んだ。

 港では船の近くまで鉄道の引き込み線が伸び、馬車や荷車が長い列を作った。廻船問屋や雑穀商の倉庫群が並び、銀行や華やかな料亭、飲食店、造船所なども繁盛していた

 映画のタイトルにもなった「バック・トゥー・ザ・フューチャー」という言葉には、「人は背中(バック)からしか未来へ進んでいけない」という意味があるという。人間に見えるのはすべて過去と現在にすぎず、未来はあくまで背後にあるのだ。

 かつての江別港にはいま、わずかの倉庫群が残っているだけだ。僕たちはその街角で、建築とは歴史の書物にほかならないことを理解するだろう。それが消滅してしまえば、未来への針路はますます見えにくくなる。

 (文・谷口雅春 写真・露口啓二)

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