takeda-sekaitoiuhairi.jpg 竹田青嗣が文芸評論家だとは知っていましたが、実際にこのジャンルの本を読んだのは初めてです。加藤典洋の本(『敗戦後論』)を読んだ時にも感じたのですが、文学者の感性を読んでいて感じます。独特の文学者の感性というのは、私としては、あまり文学者の本を読まないせいか新鮮な感じを受けました。竹田青嗣の本は、哲学関連の本をたくさん読んだ経験がありますが、私の鈍な頭でも理解できるようにかみ砕いて書かれているので助かります。一般読者にもわかるように書いてはじめて本の機能を果たす、と思うのですが、哲学関係の本は難解すぎる本が多くて難儀します。読んでいて、著者は本当に理解して書いているのか疑わしい本も多いです。そういう本は、時間の無駄ですから読まないようにしています。

 この本で竹田は、文芸評論家の小林秀雄と思想家の吉本隆明を取り上げています。小林秀雄の場合は、戦前からマルクス主義や近代主義に対決する姿勢をとり、評論活動を展開してきたわけですけど、竹田は新たな評価をしています。「個々人にとって現れ出る固有の世界」「生のありよう」を重視します。そこがおもしろかった。小林の戦時中の態度に対して、今までの文学者や評論家とは全く逆の評価を下しているようです。いわば、ポストモダンの生き方を実践的に見せてくれた人物、というとらえ方ができるのか?!

 吉本隆明については、社会学者・桜井哲夫の本を通じてこれまではすっかり嫌いな思想家になっていました。でも、この竹田の本を読んでみると、簡単にうち捨てることはできない思想家に見えてきました。60年代の秩序や規範に対する反逆のその根拠を探究していた彼の狙いは、その当時としては、そして現代にも通じる非常に真っ当な普遍的な課題を探求していたとして捉えるべきだと思うようになりました。更に「人間はもともと社会的人間なのではない。孤立した、自由に食べそして考えて生活している個人でありたかったにもかかわらず、不可避的に社会の共同性をつくりだしてしまったのである。」(P73)この辺の文章を読んでみると、何か「ほっとする」ものを感じるのは私だけであろうか。類的存在という概念が頭の隅にあるばっかりに「人間はこうあらねばならない」という観念に悩まされるのだ。もっと自由に考えて良いのだ、と教えられた気になりました。
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haisennogakusetsu.jpg『敗戦の逆説 戦後日本はどうつくられたか』ちくま新書193
著者 進藤栄一/著
出版社名 筑摩書房
発行年月 1999年04月
販売価格 693円

 進藤栄一の本を読むのは初めてです。
 日本の敗戦(1945年8月)よりずっと前に日本占領計画は練られていました。ただ、アメリカ人にもいろいろな考えを持った人物がいて、改革派や旧守派達のせめぎ合いでいろいろ変更もあって、それらが占領直後から適応されていった。その過程を詳しくたどっていったのが本書です。詳しくたどっていったといっても新書版の制約はありますが。私のような素人が「その過程」を読み進めるには、忍耐が必要でした。読んでいて1つ気になったのは、「市民主義」という言葉が何回か出てくるのですが、この本の中で詳しくは論じられていません。戦前の日本国民を「臣民」というとらえ方をしているので、戦後は占領政策で国民は主体性と自由を持った欧米のような「市民」に変革しようとしたのだがそれが不十分だった、というのが著者の認識のようですので、もっと徹底したかたちでの「市民」を想定して「市民主義」ということを言いたかったのかもしれません。加藤典洋の『敗戦後論』(1997年)なんかを想定して論を進めているのかもしれません(加藤典洋の『敗戦後論』をまだ読んでいないので推測です)。また、野口悠紀夫の『1940年体制』の1940年体制論を批判する注目の章もあります。読んだ感想では、野口の論はインチキっぽいような印象を持ちました。詳細には、もちろん検討が必要です。

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